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紀伊大島(和歌山県串本町)~日本とトルコの友好の原点がここにある。

本州最南端に近い離島には、歴史的事件がありました。日本人なら、一度は訪れたい島です。
KEY WORD: 串本、紀伊大島、くしもと大橋、トルコ記念館、遭難慰霊碑
マップ <紀伊大島
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潮岬から県道41号線(潮岬周遊道路)を東へ進むと、半島の東海岸沿いを北へと向かいます。潮岬から約5キロで、浅海交差点に着きます。ここを右折して、「くしもと大橋」を渡ります。

紀伊大島へ渡る「くしもと大橋」は、1999年(平成11年)9月に完成しました。
本州と大島を橋で結ぶことは昔からの島民の大願でした。
くしもと大橋は、中間に浮かぶ「苗我島」を介して2つの橋からなり、潮岬側から長さ386メートルのループ橋、長さ290メートルアーチ橋と続きます。
紀伊大島
橋杭岩5

紀伊大島は、周囲28キロの和歌山県最大の島で、人口は約2,000人。古くから漁業が盛んで、捕鯨で栄えた時期もありました。
くしもと大橋から、島を横断する県道40号線(樫野串本線)で、島の東端にある「樫野埼」までは約8キロ。快適な2車線道路が続きます。県道の突き当りに無料駐車場があります。

ここ紀伊大島の樫野埼は、歴史的に重大な事件の舞台となりました。
ひとつは、鎖国中の江戸時代末期、1791年(寛政3年)に米国の商船「レディ・ワシントン号」が商用目的で、樫野埼に来航しました。1853年(嘉永6年)ペリーの黒船来航の62年前のことで、日本に来航した最初のアメリカ船です。
この事件にちなみ、樫野埼には、「日米修交記念館」が設置されています。

また、1866年(慶応2年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と締結された「改税条約」(別名:江戸条約)によって建設することを約束した全国8ヶ所の灯台の一つとして、「樫野埼灯台」が建設されました。
樫野埼灯台は、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で最初に設計し、1870年(明治3年)に初点灯した日本最初の石造灯台です。
灯台内部は一般公開されていませんが、灯台横に併設のらせん階段で灯台上に上ることができます。

そして、二つ目の歴史的事件は、1890年(明治23年)9月16日夜半に起こりました。
1887年に行われた小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えることを目的に、オスマン帝国(今のトルコ)海軍の航海訓練を兼ねて、木造フリゲート船「エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)」が、大日本帝国(今の日本)へ派遣されることとなりました。
1889年7月14日、イスタンブールを出港し、11か月をかけて翌1890年6月7日に、ようやく日本に到着。
横浜港に入港したエルトゥールル号の特使一行は、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。その帰途に悲劇が起こります。
日本入港から3カ月余りが経った9月15日、エルトゥールル号は横浜を出航し、帰途に着きます。
この時、日本側は台風の時期をやり過ごすように勧告しましたが、オスマン帝国側は、その制止を振り切って出航したのでした。

1890年9月16日21時頃、エルトゥールル号は、折からの台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突。
座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、22時半ごろに沈没しました。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出されました。
岩礁

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者が、数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりつき、助けを求めました。この時、お互いの言葉が分からない灯台守と生存者は、国際信号旗を使用して、意思疎通を図ったのでした。

通報を受けた大島村樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たりました。
この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにも係わらず、住民は、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら提供し、懸命に生存者たちの救護に努めました。
赤十字

この結果、69名が救出され、生還することが出来ました。
その一方で残る587名は、死亡または行方不明となる大惨事となりました。
村長は県を通じて大日本帝国政府に通報し、知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示しました。その後、生存者69名は神戸で治療・療養の後、日本海軍の2隻の軍艦(比叡、金剛)により、帰国の途につき、無事帰国しました。
これが、「エルトゥールル号遭難事件」の全容です。

この事件は、新聞を通じてオスマン帝国でも大々的に報じられ、大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられました。当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、心からの感謝の念を抱いたと言われています。
その後の日露戦争で、日本が勝利すると、同じくロシアの脅威にさらされていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙として熱狂しました。
トルコは、今でも、世界でも屈指の親日家が多い国として知られています。

尚、「エルトゥールル号遭難事件」は、『海難1890』という題で映画化(日本・トルコ合作)され、2015年12月に全国ロードショーされました。その後、DVD化されておりレンタル店でも借りられます。
映画ロケ記念展示

エルトゥールル号遭難事件の翌年2月には、沈没海域を見下ろす丘の上に共同墓地が整備されました。
1929年(昭和4年)には、昭和天皇が慰霊碑を参詣されています。
また、これを受け、トルコ共和国の初代大統領が建設費を捻出し、1937年(昭和12年)に現在の慰霊碑と墓域が完成しました。
遭難慰霊碑
それからは5年ごとに、駐日トルコ共和国大使館との共催で追悼式典が開催されています。
また、1974年(昭和49年)には「トルコ記念館」が開館。館内には、エルトゥールル号遭難事件に関する多くの資料が展示されています。





決死の救助活動と献身的な介護が行われたエルトゥールル号遭難事件の物語は、まだ、続きがあります。

海難事件から、95年の時が流れて、1985年(昭和60年)3月17日。
イラン・イラク戦争」の真っ只中、イラクのサダム・フセイン大統領は、突如、「48時間の猶予期間後は、イラン上空の航空機に対し、無差別に攻撃する」という宣言を出しました。
各国は期限までにイラン在住の国民を軍用機や旅客機で救出しましたが、日本国政府は自衛隊の海外派遣不可の原則のために、航空自衛隊機による救援ができませんでした。民間航空会社JALも「航行安全の保証がされない限り、臨時便は出せない」としました。
215名の在イラン邦人は、期限までにイランから脱出できない状況に陥りました。

諦めと絶望感が漂う中、テヘランの空港に取り残された在イラン邦人。タイムリミットが近づきます。
そこへ、2機の航空機が空港へ降り立ちます。そう、救出にやってきたのは、トルコ航空の航空機。危険を冒して、在イラン邦人の救出を行ったのは、トルコ政府でした。
イランを脱出した215名の日本人は、トルコ経由で無事に日本へ帰国できました。

当時、日本政府もマスコミも、何故、トルコが危険を冒してまでも日本人を救出してくれたのか、分かりませんでした。
後日、トルコ大使からコメントが届きます。

「トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。」
「わたしたちは、エルトゥールル号の借りを返しただけです。」

(写真撮影日: 2016年1月6日)





<2017年串本周辺のおススメ宿>じゃらん口コミ評価4.2以上。
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