奥州平泉・中尊寺(岩手県平泉町)~世界遺産 平泉を巡る旅②
仏の教えによる平和な理想社会が百年続いた「平泉の世紀」。その中核であった「関山 中尊寺」を訪ねる。
KEY WORD: 平泉、中尊寺、関山 中尊寺、中尊寺金色堂
マップ <平泉 中尊寺>
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平泉町巡回バス「るんるん」の「中尊寺」バス停は、国道4号線沿いにあります。
町営の駐車場も近くにあります。駐車料金400円です。駐車場周辺には、数軒の土産店、食事処が軒を並べています。
「中尊寺」は、寺伝によると、嘉祥3年(850年)、比叡山延暦寺の高僧・円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされています。その後、貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったといいます。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として有名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有しています。
2011年(平成23年)6月、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。
奥州藤原氏の初代・藤原清衡が、平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建)に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時でした。建立の主旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(「前九年の役・後三年の役」)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。
それは、戦乱で父親や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡の非戦の決意でもありました。
清衡は、釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのです。
国道4号線から中尊寺坂下へ歩を進めると、「月見坂」と呼ばれる坂の入口に出ます。
中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵にあるため、この坂が本堂、金色堂へと参拝する人々の表参道となります。

尚、ここからの参観時間は、2時間が目途です。
参道の両脇には、江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数えようかという幾本もの老杉が立っています。

山の張りつめた空気を相まって、荘厳な雰囲気です。

やがて右手には、展望所があり、平泉の地を眺望できます。

松尾芭蕉をはじめ、この地を訪れた旅人は皆、ここで足を止め、在りし日の平泉の栄華に思いを馳せたに違いありません。
本堂までの参道横には、「弁慶堂」、「地蔵堂」、「薬師堂」が建っています。


中尊寺の中心となる堂塔のひとつである「本堂」は、明治42年に再建されたものです。

現在も、年間を通じて、法要・儀式や様々な行事が行われています。


また、境内には、「奥の細道展」があります。
本堂を過ぎると、「峯薬師堂」、「大日堂」、「不動堂」等が建っています。




やがて、左手に「讃衡蔵(さんこうぞう)」の建物があります。
奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館です。
この先に金色堂入口があり、この先の拝観は有料で、800円です。拝観券はこちらで求めます。
「中尊寺金色堂」は、藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表として国宝に指定されています。
金色堂は、建立当初は屋外に建っていましたが、建立の数十年後には、建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側からすっぽり包む形で「覆堂」が建設されました。
現在の金色堂覆堂は、1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されています。

また、金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められています。
元禄2年(1689年)5月13日、源義経の足跡を辿って平泉を参観した松尾芭蕉は、ここ金色堂で、「五月雨の 降り残してや 光堂」の句を詠んでいます。
今は荒れ果てた草むらとなっていても、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防いである。全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ、という意です。
初代清衡の死後、二代目基衡は父の意志を継いで、薬師如来を本尊とする「毛越寺」の造立を進めました。
(※毛越寺に関しては、別記事<毛越寺>を参照ください。)
そして、三代目秀衡は阿弥陀如来を本尊とする「無量光院」を建立します。

平泉はおよそ百年近くに渡って繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。
しかし、平氏政権を倒した「源義経」が、兄頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼って、平泉に落ちのびた頃から時代は動き出します。
義経を庇護した三代目秀衡が病死すると、四代目泰衡は、頼朝による再三の圧力に屈し、父秀衡の遺言を破り、義経を衣川館に襲い(「衣川の戦い」)、義経を自害に追い込みます。
国道沿いのバス停近くには、「武蔵坊弁慶」の墓碑があります。

藤原泰衡が、源義経を死に追いやった「衣川の戦い」で、多数の敵勢を相手に、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命しました。
その最期は「弁慶の立往生」と、後世に語り継がれています。
その後、泰衡も頼朝に攻められ、仏の教えによる平和な理想社会が百年続いた「平泉の世紀」は終焉を迎え、文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するのです。
(掲載写真撮影日: 2015年12月23日)
<2017年平泉周辺のおススメ宿>じゃらん口コミ評価4.0以上。
※表示の宿泊料金は、平日2名一室利用時の一人当り最安税抜価格です。
●一関温泉 山桜桃の湯 1泊朝夕食付き 8,296円~
●美人の湯 山王山温泉 瑞泉郷(旧:矢びつ温泉 瑞泉閣) 1泊朝夕食付き 9,120円~
●奥州平泉温泉 そば庵 しづか亭 1泊朝夕食付き 10,555円~
●珠玉の湯 薬師堂温泉 1泊朝夕食付き 8,000円~
●平泉ホテル武蔵坊 1泊朝夕食付き 10,000円~
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マップ <平泉 中尊寺>
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平泉町巡回バス「るんるん」の「中尊寺」バス停は、国道4号線沿いにあります。
町営の駐車場も近くにあります。駐車料金400円です。駐車場周辺には、数軒の土産店、食事処が軒を並べています。
「中尊寺」は、寺伝によると、嘉祥3年(850年)、比叡山延暦寺の高僧・円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始まりとされています。その後、貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったといいます。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として有名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有しています。
2011年(平成23年)6月、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。
奥州藤原氏の初代・藤原清衡が、平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建)に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時でした。建立の主旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(「前九年の役・後三年の役」)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。
それは、戦乱で父親や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡の非戦の決意でもありました。
清衡は、釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのです。
国道4号線から中尊寺坂下へ歩を進めると、「月見坂」と呼ばれる坂の入口に出ます。
中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵にあるため、この坂が本堂、金色堂へと参拝する人々の表参道となります。

尚、ここからの参観時間は、2時間が目途です。
参道の両脇には、江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数えようかという幾本もの老杉が立っています。

山の張りつめた空気を相まって、荘厳な雰囲気です。

やがて右手には、展望所があり、平泉の地を眺望できます。

松尾芭蕉をはじめ、この地を訪れた旅人は皆、ここで足を止め、在りし日の平泉の栄華に思いを馳せたに違いありません。
本堂までの参道横には、「弁慶堂」、「地蔵堂」、「薬師堂」が建っています。


中尊寺の中心となる堂塔のひとつである「本堂」は、明治42年に再建されたものです。

現在も、年間を通じて、法要・儀式や様々な行事が行われています。


また、境内には、「奥の細道展」があります。
本堂を過ぎると、「峯薬師堂」、「大日堂」、「不動堂」等が建っています。




やがて、左手に「讃衡蔵(さんこうぞう)」の建物があります。
奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館です。
この先に金色堂入口があり、この先の拝観は有料で、800円です。拝観券はこちらで求めます。
「中尊寺金色堂」は、藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表として国宝に指定されています。
金色堂は、建立当初は屋外に建っていましたが、建立の数十年後には、建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側からすっぽり包む形で「覆堂」が建設されました。
現在の金色堂覆堂は、1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されています。

また、金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められています。
元禄2年(1689年)5月13日、源義経の足跡を辿って平泉を参観した松尾芭蕉は、ここ金色堂で、「五月雨の 降り残してや 光堂」の句を詠んでいます。
今は荒れ果てた草むらとなっていても、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防いである。全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ、という意です。
初代清衡の死後、二代目基衡は父の意志を継いで、薬師如来を本尊とする「毛越寺」の造立を進めました。
(※毛越寺に関しては、別記事<毛越寺>を参照ください。)
そして、三代目秀衡は阿弥陀如来を本尊とする「無量光院」を建立します。

平泉はおよそ百年近くに渡って繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。
しかし、平氏政権を倒した「源義経」が、兄頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼って、平泉に落ちのびた頃から時代は動き出します。
義経を庇護した三代目秀衡が病死すると、四代目泰衡は、頼朝による再三の圧力に屈し、父秀衡の遺言を破り、義経を衣川館に襲い(「衣川の戦い」)、義経を自害に追い込みます。
国道沿いのバス停近くには、「武蔵坊弁慶」の墓碑があります。

藤原泰衡が、源義経を死に追いやった「衣川の戦い」で、多数の敵勢を相手に、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命しました。
その最期は「弁慶の立往生」と、後世に語り継がれています。
その後、泰衡も頼朝に攻められ、仏の教えによる平和な理想社会が百年続いた「平泉の世紀」は終焉を迎え、文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するのです。
(掲載写真撮影日: 2015年12月23日)
<2017年平泉周辺のおススメ宿>じゃらん口コミ評価4.0以上。
※表示の宿泊料金は、平日2名一室利用時の一人当り最安税抜価格です。
●一関温泉 山桜桃の湯 1泊朝夕食付き 8,296円~
●美人の湯 山王山温泉 瑞泉郷(旧:矢びつ温泉 瑞泉閣) 1泊朝夕食付き 9,120円~
●奥州平泉温泉 そば庵 しづか亭 1泊朝夕食付き 10,555円~
●珠玉の湯 薬師堂温泉 1泊朝夕食付き 8,000円~
●平泉ホテル武蔵坊 1泊朝夕食付き 10,000円~
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